大伴家持1

大伴家持おおとものやかもち養老二?〜延暦四(718-785)略伝大納言旅人の嫡男。母は不詳(一説に多治比氏)。弟には夭折した書持、妹には留女女郎と呼ばれた女性がいる。坂上郎女は叔母。子には永主がいる。

神亀四年(727)冬頃、大宰帥に任ぜられた父に随い、筑紫に下向する。当時大宰府には山上憶良沙弥満誓ら文人が集い、筑紫歌壇を形成した。天平二年(730)末、父の大納言任命に伴い帰京したが、旅人は翌年七月死去した。

少年期から坂上郎女をはじめ多くの女性と歌を贈答した。天平十一年には悲傷亡妾歌を詠み、これ以前に側妻を失ったらしい。まもなく、坂上郎女の娘大嬢を正妻とした。

天平十二年(740)以前に内舎人(うちどねり)に任ぜられ、同年十月末、藤原広嗣の乱を発端とした聖武天皇の関東行幸に従駕。同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住した。この頃聖武天皇の唯一の皇子であった安積親王に臣従したが、親王天平十六年(744)閏一月に急死、家持は挽歌を作ってその死を悼んだ。

平城還都後の天平十七年(745)正月、従五位下に叙される。翌十八年六月、宮内少輔より越中国守に遷され、同国に赴任した。越中では下僚の大伴池主とさかんに歌を贈答し、また異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌を詠んだ。天平二十年四月、元正上皇崩御すると作歌はしばらく途絶えるが、翌二十一年四月、聖武天皇東大寺行幸における詔を機に再び創作は活発化し、陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌など多くの力作を矢継ぎ早に作った。翌天平勝宝二年(750)春には春苑桃李の歌など、越中時代のピークをなす秀歌を次に生み出す。

天平勝宝三年(751)七月、少納言に遷任され、まもなく帰京。当時、政治の実権は光明皇太后藤原仲麻呂によってほぼ掌握されていたが、家持は左大臣橘諸兄や右大弁藤原八束らのグループに近く、政治的にはやや不遇な立場に身を置いたと言える。同五年二月の所謂春愁三首(万葉集巻十九巻末)に唄われた孤独感は、当時の家持の境涯と無関係ではあるまい。同六年四月には兵部少輔に転任し、翌年防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集、自らは防人の悲別の心を痛む歌などを作った。同八年二月、諸兄は聖武上皇誹謗の責により左大臣を辞任。同年五月には永年主君と仰いだ聖武太上天皇が崩じた。六月、出雲守大伴古慈悲が讒言により解任された事件に際し、族を喩す歌を作り、同族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。

天平勝宝九年(757)正月、橘諸兄薨去。同年六月、兵部大輔に昇進。翌月には橘奈良麻呂の乱があり、大伴佐伯氏の多くが連座したが、家持は咎めを受けた形跡がない。この頃、大原今城三形王大中臣清麻呂らと交流、多くの宴歌を残している。

天平宝字二年(758)六月、右中弁より因幡守に遷任される。同年八月、恵美押勝(藤原仲麻呂)の後援のもと、淳仁天皇が即位。翌宝字三年正月、因幡国庁における宴で歌を詠む。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。

天平宝字六年(762)正月、信部大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京。翌年三月か四月頃、藤原宿奈麻呂(良継)らと共に恵美押勝暗殺計画に連座して現職を解任され、同八年正月には薩摩守に左遷された。同年九月、押勝は謀反を起こして殺され、翌月孝謙上皇が再祚(称徳天皇)、以後道鏡が専横をふるう時代となる。

薩摩守解任後、大宰少弐に任命されて再度筑紫に下ったが、神護景雲四年(770)六月、民部少輔に遷任されて帰京。同年八月、称徳天皇が崩じ、道鏡は失脚。同年十月、光仁天皇即位と共に正五位下に昇叙されたのは、実に二十一年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、中務大輔左中弁左京大夫衛門督などの要職を歴任、官位も急速に進み、宝亀九年には正四位下に昇った。宝亀十年(779)二月、参議に任ぜられ、議政官に名を連ねた。

天応元年(781)四月、桓武天皇践祚し、その同母弟早良親王立太子すると、春宮大夫を兼ねた。同年十一月、従三位。しかし光仁上皇崩御後の天応二年正月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は連座の罪によって現任を解かれた。しかしこれは冤罪であったらしく、四か月後、春宮大夫に復任。同年六月、陸奥按察使鎮守将軍を兼任し、蝦夷の反乱で揺れていた陸奥に赴任する。

延暦二年(783)七月、陸奥にあって中納言に任ぜられる。翌年二月、持節征東将軍を兼ねる。その後も陸奥蝦夷征討計画に従事していたと思われるが、延暦四年八月二十八日、死去した(公卿補任には在陸奥とある)。最終官位は従三位。薨年は六十八歳か。

ところが薨去の直後、大伴氏族の多くが関与した藤原種継暗殺事件に主謀者として名を挙げられ、生前に遡って除名される。この処分は延暦二十五年(806)三月に至って解除され、家持は従三位に復位された。

漢文学の洗礼を受けた筑紫歌壇の影響下、若年から歌作りに精進したが、まもなく人麻呂赤人ら宮廷歌人の伝統を意志的に引き継ぎ、万葉歌の世界を綜合した大歌人である。万葉歌人中、同集に最も多くの歌を残し、収録歌は長短歌計四百七十三首を数える四百七十九首とする説もあるが、弟の書持の歌を家持作とした誤写に基づくものである。勅撰二十一代集には六十三首入集している。三十六歌仙小倉百人一首にも歌を採られている。

繊細優美で抒情的な短歌に最も特色をみせ、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても、わが国文学史に巨大な影を落とす。しかしその本格的な評価の開始は近代、折口信夫らを待たねばならなかった。

古くから万葉集の撰者編纂者に擬せられ、平治元年(1159)頃までに成立した藤原清輔の袋草子には、すでに万葉集について撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称すとある。また江戸時代前期の国学者契沖は萬葉集代匠記で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。近来、家持単独編集説は揺れているが、万葉集形成に果した役割の大きさは疑いがなく、同書を後世に伝えた唯一最大の功績者であることに変わりはない。

なお万葉集末四巻は家持の歌日記とも言われるが、書簡など散文を織り交ぜ、単なる歌集を超えて、きわめて意識的に構成されたユニークな文学世界を築き上げている。

春22首夏9首秋7首冬3首賀2首離別4首

羇旅16首恋相聞8首悲傷7首雑7首賦長歌15首計100首

付載家持集勅撰集より9首更新

新河郡の延槻はひつき河を渡る時に作る歌

立山たちやまの雪し消くらしも延槻の川の渡り瀬あぶみ漬かすも17-4024

通釈立山の雪が消えるらしい。延槻川の渡り瀬を、鐙まで水に浸かりながら行くのだ。

語釈立山(たちやま)富山県中新川郡立山(たてやま)連峰。所謂北アルプスの西北端に位置する。延槻(はひつき)の川現在の早月川。立山連峰に発し、滑川市魚津市の境をなして富山湾に注ぐ。参考写真。あぶみ鐙。馬具の一つで、乗り手の足を支えるもの。

補記国守として越中に赴任していた天平二十年(748)春、国内各地を巡行した時の作。

鶯の歌

うち霧きらし雪は降りつつしかすがに我ぎ家への苑に鶯鳴くも8-1441

通釈空いちめんを曇らせて雪が降りしきっているが、とはいえ我が家の庭園では鶯の鳴く声がするよ。

補記万葉集巻八の排列からすると、天平四年以前の作。十代半ば頃の最初期の作であるが、すでに作者の繊細な稟質は明らか。平安時代までは家持の代表作の一つと目されたいた。

他出拾遺集、古今和歌六帖、綺語抄、秀歌大躰、夫木和歌抄、歌林良材

結句を鶯ぞ鳴くとする本が多い。

主な派生歌

風まぜに雪は降りつつしかすがに霞たなびき春は来にけり(読人不知新古今)

うちきらし猶風さむしいそのかみふるのやまべの春のあは雪(九条道家続後撰)

うちきらし雪はふりきぬ高円の山の桜に風や吹くらむ(雅成親王)

藤原久須麻呂に贈る

春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも4-786

通釈春雨はしきりに降っているものの、我が家の梅の花はまだ咲かないことです。あまりに若過ぎるからなのでしょうか。

語釈藤原久須麻呂藤原仲麻呂恵美押勝の三男。旧名を浄弁(じょうべん)と言い、天平宝字二(758)年頃久須麻呂に改名した。天平宝字八年、父の反乱に加わって射殺された。

補記万葉集巻四の巻末に収められた久須麻呂との贈答歌群より。表面的には梅の花に寄せた挨拶歌のように見えるが、一連のやり取りからすると、梅の花はおそらく家持の幼い娘を指し、久須麻呂の息子との結婚話を婉曲に断った歌らしい。天平宝字四年〜六年頃の作と推測され大伴家持全集巻末の付記参照、万葉集で制作年代を推定し得る最後の歌群である。

宴席に雪月梅花を詠む歌

雪のうへに照れる月夜つくよに梅の花折りて贈らむ愛はしき児もがも18-4134

通釈積もった雪の面を照らす月明りの夜こんな風流な夜には、梅の花を折って愛しい人のもとに贈りたい。そんな相手があればよいものを。

補記雪月花を一首のうちに詠み込んだ最初の歌で、後世の日本の美意識の原型が家持の歌に見られることは大変興味深い。

天平勝宝二年三月一日の暮、春の苑の桃李の花を眺めて作る(二首)

春の苑紅にほふ桃の花したでる道に出で立つ乙女19-4139

通釈春の苑は、紅の色に照り映えている。桃の花に染められてほのかに赤く色づいた道に、佇んでいるよ、紅の裳裾を垂らした少女たちが。

語釈したでる不詳。シタはシタヒ秋山のしたへる妹万葉2-217と同根で、赤く色づく赤く照るの意か。または下萌えひっそりと芽生えるなどと同例で、うっすらと照る意か。

補記題詞に桃李の花を眺矚(なが)めて作るとある通り、実際詠み手が目にしているのは苑に咲く花だけであり、乙女は幻想されたイメージ。以下、あしひきの八峯の雉の歌までは越中での作。

主な派生歌

三日月に紅にほふ桃の花ひかりもいとどまされとぞ思ふ(大江匡房)

梅の花くれなゐにほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる(京極為兼玉葉)

我が園の李すももの花か庭に散るはだれの未だ遺りたるかも19-4140

通釈我が家の前栽の李の花が散ったのだろうか。それとも、はらはらと庭に降り落ちた斑雪が消えずに残っているのだろうか。

翻とび翔かける鴫しぎを見て作る

春まけて物悲しきに小夜更けて羽ぶき鳴く鴫誰が田にかすむ19-4141

通釈待ちかねた春が来て、何かと切ない気分でいるところに、夜が更けた頃、羽ばたきながら鳴いてゆく鴫誰の田に住む鴫であろうか。

柳黛りうたいを攀ぢて京師を思ふ歌

春の日に張れる柳を取り持ちて見れば京の大路おほち思ほゆ19-4142

通釈春の陽光に芽をふくらませた柳の枝を手折り、つくづく見れば、京の大路が思い起こされる。

補記越中にて京を偲んだ歌。唐代、柳の枝を折って旅人に贈る風習があり、これに基づいた詩題折楊柳が盛行していた山口博万葉集の誕生と大陸文化角川選書。その意味で中国詩に倣った発想であるが、平城京朱雀大路には現に柳の並木が植えられていたので、柳と望郷の取り合わせは家持にとって極めてリアルな題材だったはず。また柳黛張れる柳との言い方から、大路を行き交う都の女たちの美しい眉目を想起させる歌にもなっている。

堅香子草かたかごの花を攀ぢ折る歌

物部もののふの八十やそ乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花19-4143

通釈少女たちが大勢入り乱れて水を汲む寺の泉その畔に、いま咲き乱れている堅香子の花。

片栗の花

語釈物部の八十(やそ)の枕詞。もののふは武人の意で、武人の射る矢からやに掛かるとする説などがある。八十(やそ)乙女(をとめ)ら大勢の少女たち。八十は数の多さをあらわす語。汲みまがふ入り乱れて汲む。少女の群れと花の群れとが入り乱れるさまをも想像させる。寺井寺の境内の泉、または井戸。堅香子カタクリとするのが通説。山地の湿った木陰に生える多年草で、越中のような多雪地では時に大群落を見る。紫に近い淡紅色の六弁花。

補記汲みまがふまでの上三句は、寺井を修飾する序詞的な働きをしている。詠み手が実際目にしているのは泉の畔の片栗の花だけであり、少女たちの乱舞は詠み手の幻視である点、春苑桃李の歌(19-4139)と共通する趣向である。

帰る雁を見る歌(二首)

燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く19-4144

通釈燕が飛来する季節になったとて、雁は故郷を慕いつつ雲の中を鳴いて渡る。

補記春、燕の飛来と入れ替わるように北へ去ってゆく雁を詠む。万葉集に帰雁を題材にした歌は少なく、この歌を含め三首のみ。漢詩文の影響を大きく蒙った平安朝以後、極めて好まれる歌題となる。掲出歌はその先駆とも言うべき作である。

春まけてかく帰るとも秋風に黄葉もみたむ山を超え来ざらめや19-4145

通釈春になってこうして故国に帰ってしまうけれども、また秋風が吹く頃になれば、黄葉した山を飛び超えてやって来ないわけがあろうか。

補記雁は春に日本を去ってシベリアカムチャッカ半島方面へ渡り、秋になると再び日本に戻って来る。

春雉の歌

春の野にあさる雉きぎしの妻恋ひに己おのがあたりを人に知れつつ8-1446

通釈春の野に餌をあさる雉は、妻を慕って鳴き、自分の居場所を狩人に知らせてしまっている。

補記のどかな春の野に鳴く雉の声に、作者は恋に身を滅ぼす悲愴の情を聴いた。家持少年期の作と思われ、春愁歌人の片鱗をのぞかせる。拾遺集に採られた(第四句はおのがありかを)ばかりでなく、金玉集深窓秘抄三十六人撰(以上藤原公任撰)三十人撰(具平親王撰)定家八代抄など、多くの秀歌撰に採られている。平安時代においては家持の代表作と目されていたようである。

主な派生歌

萩原も霜枯れにけり御狩野はあさるきぎすのかくれなきまで(長済後拾遺)

楢柴も枯れゆくきぎすかげをなみ立つや狩場のおのがありかを(藤原定家)

おのが妻こひわびにけり春の野にあさるきぎすの朝な朝ななく(源実朝)

音にたてぬかり庭の雉さのみやはおのがありかを忍びはつべき(実甚新続古今)

暁に鳴く雉きぎしを聞く歌(二首)

杉の野にさをどる雉いちしろく音ねにしも哭なかむ隠こもり妻かも19-4148

通釈杉の野に踊る雉は、はっきりと声に出して鳴いてしまうだろうそして狩人に見つかってしまうだろうのにどこかに隠れている妻がそれほど恋しいのか。

あしひきの八峯やつをの雉鳴き響とよむ朝開あさけの霞見ればかなしも19-4149

通釈幾重にも重なる山の尾根で、雉が激しく鳴き叫んでいる。そんな明け方の朝焼け雲を見ると、切なさで胸がいっぱいになる。

語釈朝開の霞朝焼けの雲。和名抄に霞、加須美、赤気雲也とあり、また文選の洛神の賦に太陽ノ朝霞(テウカ)ニ升(ノボ)ルガゴトクと、朝焼けの雲を朝霞と呼んでいる。

山斎しまを属目して作る歌

池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木あしびの花を袖に扱入こきれな20-4512

通釈池の水面に影を映すほど咲き照るアセビその花を袖にしごいて入れよう。

語釈袖にこきれな花を袖に擦り付けて匂いを移し、そのまま袖の中に入れておくこと。

補記天平宝字二年(758)二月、中臣清麻呂邸の宴での作。

天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌(二首)

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも19-4290

通釈春の野に霞がたなびいてこのように季節は春の盛りを迎えたというのに私は切なさで胸がいっぱいになる、この夕暮れの光の中に、鶯が鳴いているのを聞くと。

語釈興に依りて原文は依興。実景を目にしての作でない想像裡の作であることに注意を促している。

主な派生歌

春日野やいづくみむろの梅がえに霞たなびき鶯ぞなく(藤原家隆)

うちなびく春さりくれば春日野に霞たなびきうぐひす鳴くも(本居宣長)

萬?のなかに獨りのおのれゐてうらがなし鳥のゆく道を思もへ(前川佐美雄)

我が屋戸のいささ群むら竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも19-4291

通釈庭先のささやかな竹の群を吹きわたる風の音が、なんとかすかに繊細に響く、この夕暮れ時であることか。

語釈いささ群竹イササを細波(ささなみ)などのササ(小さい意)と同根とし、ささやかな竹の群と解する説、五十竹葉で竹の葉の多い意とする説、斎笹(ゆささ)(10-2336)と同じで神聖な笹の葉の意とする説などがある。

主な派生歌

風ふけばいささむら竹うちそよぎさしも秋めく夜半のけしきよ(藤原惟方)

秋来ぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は(藤原実定)

窓近きいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢(藤原公継新古今)

わが宿のいささむら竹うちなびき夕暮しるき風の音かな(藤原為家)

山本のいささむら竹うちなびき散らぬ紅葉に夕風ぞ吹く(冷泉為尹)

深き夜の風は音して灯の窓しづかなるいささむら竹(肖柏)

二十五日、作る歌

うらうらに照れる春日はるびにひばりあがり心悲しも独りし思へば19-4292

通釈明るくのどかに照り渡る春の光の中を、雲雀が鳴きながらのぼってゆき心は切なさに溢れる。独りで物思いに耽っていると。

補記題詞の二十五日は天平勝宝五年(753)二月二十五日。前の二首の二日後の作である。以上三首は家持の春愁三首と呼ばれて名高い。

主な派生歌

うらうらに照らす春日はあしひきの山も霞みて遠くなりぬる(源道済)

むらぎもの心楽しも春の日に鳥のむらがり遊ぶを見れば(良寛)

うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雲斑(はだ)らなる山に雲ゐず(斎藤茂吉)

独り龍田山の桜花を惜しむ歌

龍田山見つつ越え来こし桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに20-4395

通釈龍田山を越えながら眺めて来たあの桜の花は、私が帰る頃までにすっかり散り失せてしまうだろう。

語釈龍田山奈良県大阪府の境にある山。平城京と難波の往還には、龍田越えがよく使われた。見つつ越え来し桜花を見つつ龍田山を越えて来た。意味に即せば龍田山越え来つつ見し桜花となるべきところ。我が帰るとにトニ刀尓、刀は乙類は外にの意で内にとほぼ同意本居宣長古事記伝。ふつう否定の助動詞と共に使い、〜ヌトニの形を取り例、さ夜ふけぬとに恋ひ死なぬとに、〜しない内に、の意となる。一説に帰らぬとにとあるべきところを家持が誤用したとするが、否定にせずとも帰るうちに散ってしまうのかで意味は通じる。

主な派生歌

山たかみ見つつ我がこし桜花風は心にまかすべらなり(紀貫之古今)

山たかみ見つつこえゆく峰の松かへりこむまで面がはりすな(長慶天皇)

館の門にて江南の美女を見て作る歌

見わたせば向かつ尾上の花にほひ照りて立てるは愛はしき誰が妻20-4397

通釈見渡せば、向うの岡の斜面には桜が咲き誇り、花に照り映えて美しい人が立っているあれは誰のいとしい妻であろうか。

語釈江南難波堀江以南の地上町台地一帯を中国風に言ったものか。江南二月の春東風緑蘋(りょくひん)を転ず知らず誰が家の子ぞ花を看る桃李の津玉台新詠巻五江淹美人の春遊を詠ずを念頭に置いたものかという山口博万葉集の誕生と大陸文化角川選書

主な派生歌

埴生坂花咲く岸にたつ未通女春の永日の誰が愛しき妻(保田與重郎)

天平勝宝七歳三月三日、防人を検校する勅使と兵部の使人等と、同ともに集ふ飲宴に作る歌(二首)

雲雀揚がる春辺はるへとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく20-4434

通釈揚げ雲雀の見られる頃の春にすっかりなったので、都の方も見えないほど霞がたなびいています。

ふふめりし花の初めに来し我や散りなむのちに都へゆかむ20-4435

通釈まだ桜が蕾だった頃にやって来た我らですが、散ってしまった後で都へ帰ることになるのでしょうか。

語釈ふふめりし蕾であった。ふふめは四段動詞ふふむ蕾のままであるの意の命令形、りは完了存続の助動詞の連用形、しは過去の助動詞きの連体形。散りなむのち散ってしまうだろう後。なむは、完了の助動詞ぬの未然形なと、推量の助動詞むが結び付いた語。

掾久米朝臣廣縄の館に田邊史福麻呂を饗する宴の歌

ほととぎす此こよ鳴きわたれ燈火ともしびを月夜つくよになそへその影も見む18-4054

通釈ほととぎすよ、ここを鳴き渡ってくれ。灯し火を月の光に擬えて、その姿を見ようから。

雨の日に霍公鳥ほととぎすの喧くを聞く歌

卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間あままも置かずこゆ鳴きわたる8-1491

通釈卯の花の散り過ぎてしまうのを惜しんでか、ほととぎすは雨の降る間も休まず、あたりを鳴いて飛び回る。

卯の花

語釈卯の花ユキノシタ科の植物。別名ウツギ。初夏に白い花が咲く。霍公鳥ホトトギスカッコウカッコウ科の鳥。夏鳥。托卵の習性がある。和歌では初夏仲夏の風物とされ、鳴き声が賞美された。万葉集では前漢の名将霍公霍去病-かくきょへい-に因み、霍公鳥の字が宛てられている。霍公はまた驃騎将軍とも呼ばれ、生涯安らぐ家を持たず、匈奴征伐に明け暮れて、わずか二十四歳の若さで夭折した。巣を持たないホトトギスを、霍将軍の漂泊する霊魂になぞらえて考えていたのであろうか。雨間雨の止んでいる間の意もあるが、ここでは雨の降る間の意。

霍公鳥の歌

夏山の木末こぬれの繁しじに霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ8-1494

通釈あの夏山の梢の繁みに潜んでいるのだろう、ほととぎすが鳴き声を響かせている。その声の遥かさよ。

参考歌湯原王万葉集巻八

秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ

主な派生歌

千とせふとわがきくなへに蘆たづの鳴きわたるなる声のはるけさ(貫之)

天平十六年四月五日、独り平城ならの故宅に居りて作る歌(四首)

橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ17-3916

通釈橘の花から浸み出ていた香気は、霍公鳥が鳴くこの夜半の雨に消え失せてしまったろうか。

語釈天平十六年西暦744年。この年閏一月、聖武天皇の難波行幸において、安積皇子が発病し薨去。二月、難波京に遷都した。家持は安積皇子お付きの内舎人であったと思われるので、この頃は平城旧京で皇子の喪に服していたと思われる。

青丹よし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに17-3919

通釈青丹美しい奈良の旧都はさびれてしまったけれど、だからとて昔なじみの霍公鳥が鳴いてくれないわけはないのだ。

鶉鳴き古しと人は思へれど花橘のにほふこの屋戸17-3920

通釈鶉の鳴くような荒れ寂びたところと人は思っているが、花橘が香気をふりまく我が家の庭よここだけは昔のままなのだ。

かきつはた衣に摺り付け大夫ますらをの着装きそひ狩する月は来にけり17-3921

通釈杜若の花を衣に摺り付けて、ますらお達がその紫の衣を重ね着して狩をする月がやってきたのだ。

語釈狩薬狩。ふつう五月五日、鹿茸鹿の袋角。再生して間もない柔らかい部分の角で、強壮剤に使われたや薬草を採る宮廷行事。この年は閏一月があったため、作歌の当日四月五日がその日に当たったか。

独り幄裏に居て、遥かに霍公鳥の鳴くを聞きて作る歌(長歌略)

行方なくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくやしのはむ18-4090

通釈行くべき場所もなく、さすらい続けるとしても、ほととぎすよ、おまえが鳴いてわたる限り、私はいつもこうしてその声を愛しつづけよう。私もおまえのように、行方もなく毎日を暮らしていようとも。

船を多胡の浦に泊てて、藤の花を望み見て、懐を述べて作る歌

藤なみの影成す海の底清みしづく石をも珠とぞ我が見る19-4199

通釈藤波が影を映している湖水は底まで澄んでいるので、沈んだ小石も美しい珠のように私には見える。

天平十年七月七日夜、独り天漢あまのがはを仰ぎて聊か懐おもひを述ぶる歌

織女たなばたし船ふな乗りすらし真澄鏡まそかがみきよき月夜に雲たちわたる17-3900

通釈織女が今しも船に乗って天の川を渡って行くらしい。船出の水しぶきで晴れ渡っていた月夜に雲が広がってきた。

補記七夕、独り月夜を眺めた時の所懐を述べた歌。天の川に広がる雲を織女の乗った船がたてる水しぶきと見立て、天空のロマンに思いを馳せる。家持二十歳頃の詠で、若き日の代表作である。

他出家持集、八雲御抄、夫木和歌抄、続千載集、三百六十首和歌

主な派生歌

天の原ふりさけみればますかがみきよき月よに雁鳴きわたる(源実朝)

予かねて作る七夕の歌

妹が袖われ枕かむ河の瀬に霧たちわたれ小夜ふけぬとに19-4163

通釈愛しい恋人の袖を巻きに出かけよう。天の川の河瀬に、霧よ、立ち渡ってくれそして人の目から私の姿を隠してくれ。夜が更けてしまわぬうちに。

七夕の歌

青波に袖さへぬれて漕ぐ船のかしふる程に小夜ふけなむか20-4313

通釈天の川の青い波に、袖まで濡らしながら漕いで来た舟その舟を繋ぐ杭を打ち込んでいる間に、夜はすっかり更けてしまうだろうか。

語釈かしふる振り上げて杭を打ち込む。かしは舟をつなぎとめるために水中に立てる杭。これが転じて河岸を指すようにもなった。

補記天の川を渡り終えた牽牛が、船杭を打っているうちに夜が更けてしまうのではないかと憂える心情。

秋の歌(四首)

ひさかたの雨間あままも置かず雲隠り鳴きぞゆくなる早稲田わさだ雁が音8-1566

通釈秋の長雨が休みなく降り続く。その中を、雲に隠れて鳴きながら遠ざかってゆく、早稲田の季節の雁の声よ。

語釈早稲田雁が音カリの音に動詞刈りを掛け、早稲田を刈り取る季節のという意味を込めている。

雲隠がくり鳴くなる雁のゆきて居ゐむ秋田の穂立ほだち繁くし思ほゆ8-1567

通釈雲に隠れ鳴く雁が去ってゆく。彼方の秋田に羽を休めるつもりなのだろう、その稲の穂立ちがしきりと心に思い浮かべられるそのように、恋人のことがしきりと偲ばれる。

雨隠あまごもり心欝いぶせみ出で見れば春日かすがの山は色づきにけり8-1568

通釈雨籠もりをしていると心が鬱としてならず、庭先に出てみたら、春日の山は時雨に濡れてもう紅葉していた。

語釈雨隠り雨に濡れることを忌んで家に籠もっていること。

補記この歌が作られた陰暦九月は稲の収穫期にあたり、忌み月として恋人との逢瀬などは憚られた。心欝せみには、恋人に逢いたくても逢えないという憂鬱が含まれている。

雨晴れて清く照りたる此の月夜つくよまた更にして雲なたなびき8-1569

通釈夜になりようやく雨が上がった。澄んだ月の光が夜空を照らしている。雲よ、また棚引いて月を隠したりしないでくれ。

補記以上四首は天平八年(736)九月に詠まれた連作。当時家持は十九歳前後。この四首について詳しくは家持秀歌撰を参照されたい。

冬相聞

沫雪の庭に降りしき寒き夜を手枕まかず一人かも寝む8-1663

通釈水の泡のような雪が庭に降り敷いて寒い夜を、私は恋人の腕(かいな)を枕にすることなく一人で寝るのだろうか。

語釈沫雪(あわゆき)水の泡のように消えやすい雪。のち淡雪(あはゆき)の意に解され、主として浅春の風物とされるようになる。

雪の日に作る歌

この雪の消け残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む19-4226

通釈この雪がまだ消え残っている間に、さあ行こう、山橘の実が照っているのを眺めよう。

山橘ヤブコウジ

語釈山橘(やまたちばな)藪柑子ヤブコウジのことという。山林の陰地に自生する常緑低木で、柑橘類の橘とは全く別種の植物。秋から冬にかけて真っ赤な小さい実をつけるが、橘に似ているわけではない。

補記雪の白と山橘の実の赤の対照に感興をおぼえての作であろう。山橘は日の当たらない藪陰や石のほとりに生えるので、辺りの雪は融けにくい。天平勝宝二年(750)十二月の作。

十二日、内裏に侍さもらひて千鳥の喧くを聞きて作る歌

河渚かはすにも雪は降れれし宮のうちに千鳥鳴くらしゐむところなみ19-4288

通釈川洲にも雪が降り積もっているので、御所の内で千鳥が鳴いているらしい。居る場所がなくて。

語釈十二日天平勝宝五年正月十二日。内裏に侍ひて家持は当時少納言で、職務上内裏に出入りする機会が多かった。この場合夜なので千鳥が鳴くのは万葉では通例夜、内裏に宿直していたのだと思われる。降れれし動詞フル命令形完了の助動詞リ已然形強調の助詞シ。萬葉集略解では宣長の説として、シ之はヤ也の誤りとし、フレレヤと訓む。

補記歌が作られたのは春だが、雪千鳥を詠んでいるので、ここでは冬の歌に配した。

天平勝宝二年正月二日、国庁に饗を諸郡司等に給ふ宴の歌

あしひきの山の木末こぬれの寄生ほよとりて挿頭かざしつらくは千年寿ほくとぞ18-4136

通釈山に生えていた木の梢から寄生木やどりぎを取って髪に挿したのは、皆の千年の長寿を祝してのことである。

補記越中国庁の饗宴における作。

正月一日、因幡の国庁での宴の歌

新あらたしき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重しけ吉言よごと20-4516

通釈新たに巡り来た一年の始まりの初春の今日、この降りしきる雪のように、つぎつぎと重なれ、天皇陛下を言祝(ことほ)ぐめでたい詞よ。

語釈年の始めの初春のけふ降る雪この年天平宝字三年(759)の正月一日は立春にあたり、しかも新年の降雪は豊作を予兆する吉事であったので、三重のめでたさが籠められている。吉言吉事めでたい出来事の意にも取れる。そもそも古語の言と事は区別し難いが、ことにこのような寿歌呪歌においては言即事と考えてよい。

補記凡そ元日には、国司皆僚属(れうぞく)郡司等を率(ひき)ゐて、庁(ちやう)に向かひて朝拝(でうばい)せよ。訖(をは)りなば長官賀受けよ。宴設(まう)くることは聴(ゆる)せ儀制令。因幡国庁における新年拝賀の式に続けて催された宴での作。万葉巻末の歌。